ユリウス2世の死

1513年にユリウス2世が死ぬと、メディチ家出身のレオ10世(ロレンツォの次男)が教皇に即位し、ミケランジェロにフィレンツェのサン・ロレンツォ教会外観の設計などを命じた。教皇は若い頃、ミケランジェロと共に暮らした間柄でもあるが、気難しい性格のミケランジェロを敬遠し、フィレンツェに遠ざけたといわれる。ミケランジェロは渋々承諾し、図書館やメディチ家礼拝堂の新聖器室などを建設するが、教会の外観は現在に至るも未完成のままである。1527年、教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)のときにローマ略奪が起こると、メディチ家はフィレンツェから再び追放される。共和制に共感したミケランジェロはフィレンツェ共和国の築城長官に就任するが、これはメディチ家に対する背信的な行為であった。

『天地創造』

1508年、今度はユリウス2世から墓廟の制作より先に バチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられた。自分は彫刻家であり、画家ではないと拒んだが、しぶしぶ教皇の命令に従った。弟子の仕事ぶりが気にくわず、結局一人で制作を続けた。礼拝堂内に足場を組み、横になって苦しい作業を続け、1512年までの4年間をかけて創世記をテーマにした『天地創造』の大フレスコ画が完成した。

ローマへ呼び戻される

1506年、ミケランジェロはローマ教皇ユリウス2世にローマへ呼び戻され、教皇の墓廟を制作するよう命ぜられる。墓といっても彫刻を多数並べた巨大な構築物である。しかし多数の仕事を命ぜられたミケランジェロは、制作を何度も中断せざるを得なかった。また墓標の規模も度々変更された。墓廟の制作には40年も関わることになり、モーセ像などが制作された。

共和制のシンボル

フィレンツェではメディチ家の追放、サヴォナローラによる神制政治、サヴォナローラの失脚、新たな共和国体制、と政変が続いていた。ミケランジェロはそうした時期のフィレンツェに戻り、1501年に共和国政府の依頼で彼の代表作のひとつであるダビデ像を4年かけて制作した。ダビデ像は市庁舎(のちヴェッキオ宮)前に設置された(現在はアカデミア美術館に移され、市庁舎前にはレプリカが置いてある)。ダビデ像はフィレンツェの共和制のシンボルとなった。また、『聖家族と幼児洗礼者ヨハネ』もこのときに制作している。

『ピエタ』(サン・ピエトロ大聖堂)

ロレンツォが亡くなった1492年、ロレンツォの子で後継ぎのピエロはミケランジェロへの後援をやめた。ミケランジェロはフィレンツェを離れボローニャで3年ほど生活した。その後すぐの1496年にサンジョルジオ枢機卿がミケランジェロ作の大理石の天使を購入し、彼をローマへと招いた。ミケランジェロはローマで古代彫刻の影響を受けながら、5年の間とどまり、『ピエタ』(サン・ピエトロ大聖堂)とバッカスを作った。

幼少のころ

幼少の頃から絵画や彫刻に興味を示し、父親の希望に添わず1488年、13歳でドメニコ・ギルランダイオに弟子入りした。ドメニコは彼の才能に感心し、フィレンツェの支配者だったロレンツォ・デ・メディチに紹介した。ロレンツォはミケランジェロを自宅に引き取り学ばせた。その間にプラトン・アカデミーに集まる人文主義者たちやベルトルド・ディ・ジョバンニなど多くの突出した人々と出会い、芸術に関する着想を広げ、大きな影響を受けた。それだけではなく性に対する感情についても同様に影響を受けた。ミケランジェロはこの時期に『ケンタウロスの戦い』『階段の聖母』の二つの浮き彫りを制作している。

生涯の始まり

ミケランジェロはフィレンツェ共和国(現在のイタリアのトスカーナ州)カプレーゼに生まれた。
父ロドヴィコ (Lodovico) はカプレーゼで判事をしていたが、ミケランジェロはフィレンツェで育ち、
後に父が大理石の採掘所と小さな工房を構えていたフィレンツェ近郊のセッティニャーノで
彫刻家とその妻と共に暮らしていた。

三大巨匠と呼ばれる

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西洋で最も巨大な絵画の一つとも言われるバチカンのシスティーナ礼拝堂の天井フレスコ画や『最後の審判』、パオリーナ礼拝堂にある『聖ペテロの磔刑』、『パウロの改宗』を描いたことでよく知られている。もともとは彫刻家であり、『ピエタ』や『ダビデ像』等の傑作のほかにも『バッカス』、『モーセ』、『ラケル』、『レア』などが有名である。バチカンの『サン・ピエトロ大聖堂』の設計者でもある。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンティとともにルネサンスの三大巨匠と呼ばれる。ミケランジェロは長命であり、作品も盛期ルネサンスの時代から、マニエリスムの時代への移り変わりを示している。また躍動的な表現は、次のバロックの時代を準備したといわれる。